武人たちのグランド・フィナーレ(1) 畠山和洋よ、お前は球道を全うしたのだ

「野武士のような男だ」
畠山和洋を指して、だれかが言った。
たしかに畠山は、その風貌といい人柄といい、きわめて男臭さを感じさせる人だった。
ヒゲの巨漢というだけでも、都会的でスマートなヤクルト選手の枠には収まらない。
だがそれのみならず、彼は人間性においても異彩を放っていた。
専大北上高から2000年のドラフト5位でヤクルト入りした彼は、球団から背番号33を与えられた。
下位指名ながら、江藤智(広島、巨人などでプレー)のような強打者になるよう願いを込められたのだという。

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◆ 戸田のパチンコ帝王 ◆

球団の期待を受けた畠山は早くからその打撃の資質を発揮し、2002年には早くもファームで本塁打王を獲得している。
しかし才能だけに頼る生き方は、彼に光をもたらすことはなかった。

一流になった野球選手としては珍しく、畠山は練習嫌いとして有名だった。
昔の選手名鑑で彼の項目を見れば「趣味 パチンコ」とある。
「戸田の帝王」としてファームに君臨する彼が、巨体を揺らしていそいそとパチンコ屋に通い、パチンコ台の前でタバコを吹かしつつ一喜一憂する……そんな光景を思い浮かべると、なんだかほほえましい気持ちになったのを覚えている。

若手時代の練習姿勢について、畠山自身がこう語っている。

「練習をサボることしか頭になかった。たとえば〝1時間打て〟と言われたら10分だけ打って、あとの50分は風呂に入ってました。
 戸田の寮もよく抜け出しました。門限は夜の10時なんですが、夜中に浦和や川口の繁華街に繰り出す。酒もボトル1本は軽かったですね」
(出典:優勝ヤクルト四番・畠山和洋 遊び好きの元「不良選手」が打点王になるまで https://gendai.ismedia.jp/articles/-/45642)

とんでもねぇ奴だな……(筆者の心の声)


なんとも豪快というか、型破りというか……
畠山のそんな様子を伝え聞くたびに、私は思った。
資質の高い選手なのだろうが、おそらくは二軍の帝王のままで終わるだろうと。

勝負事の世界において、才能など上には上がいくらでもいる。
才能だけに頼って野球をし、練習嫌いの烙印までおされるような人が、プロの世界で大成する道理はないのだ。
「この人は才能の上にアグラをかいたまま、全うな野球道を歩むことなく終わるだろう」
それが若き日の畠山に対する、私の偽らざる想いだった。

◆ 人を育てるのは、愛しかないのではないか ◆


こんな畠山であるが、才能以外にも恵まれた点があった。
それは、指導者たちとの「縁」である。

そのひとりが、現役時代に「若松二世」と呼ばれた元好打者・荒井幸雄氏である。
当時二軍打撃コーチを勤めた彼は、「戸田の帝王という名の問題児」畠山に、非常に手を焼いたという。
毎夜毎夜飲みに出かけ、朝寝坊を繰り返す畠山に対し、荒井コーチは打撃指導以前に生活指導をしなくてはならなくなった。
荒井氏は畠山の生活習慣を改めさせるべく、朝の散歩を命じた。
しかしこの散歩すら、畠山は言われたとおりにこなす男ではなかったのである。

「私も、畠山が本当に散歩しているかチェックするため、横浜市内の自宅を5時30分に出て、練習場近辺に隠れて監視しました。すると、畠山はある日、自転車で練習場に現れたんです。寮長にバレるから、朝、寮を出ることは出るけど、すぐに自転車に乗ったのでしょう。ナメていましたよ。現役引退後、昨年まで14年間、コーチをした中で、私が手をあげたのは彼だけです」
(出典:優勝ヤクルト四番・畠山和洋 遊び好きの元「不良選手」が打点王になるまで https://gendai.ismedia.jp/articles/-/45642)

とんでもねぇ奴だな……(筆者の心の声)


指導者が選手に手を挙げるのは、たしかに体罰ではある。昔の野球ならともかく、現在の価値観では議論も呼ぶことだろう。
しかしこの指導における荒井コーチは、自身にも大変な掟を課していることは見逃すべきではない。
彼は畠山の「散歩」の日課を見張るためだけに、早朝5時半に家を出なくてはならなかったのだ。
これが大器・畠山に対する愛情以外の何物でもない。

ヤクルトの指導者が畠山に手を挙げたのは、荒井氏に限ったことではない。
畠山の若手時代に二軍監督を務めていた小川淳司氏(現一軍監督)が、畠山に鉄拳制裁を加えたことは、いまもヤクルトファンの語り草となっている。
小川監督ほどの温厚な人物が選手に手を挙げる。これは余程のことである。

彼らの粘り強い「人間教育」によって、畠山は見事に成長し、一軍の主力へと成長した。

その教育の根底にあったものは何か?

それは「愛」に他ならないのだと思う。

私は物書きの端くれとして、できることなら「愛」「夢」「希望」「勇気」といった陳腐な言葉は用いたくない。
だが、もし小川氏や荒井氏が、ただ怒りに任せて畠山を殴っていたとしたら……
畠山は決して更正することはなかっただろう。

ヤンチャでだらしのない畠山が、ヤクルトを背負う男にまで成長したのは、指導者たちの愛があったからに他ならない。

究極のところ、人を育てるのは愛以外にありえないのではないか。

◆ 病人に、生きる勇気をありがとう ◆


指導者たちの愛に育まれた畠山は、見事ヤクルトの四番打者に成長し、15年のリーグ優勝で歓喜の美酒に酔った。

しかし彼の栄光は、長くは続かなかった。
2016年以降は度重なる怪我に見舞われ、本来の打棒を発揮することもかなわず、ついに今シーズンでユニフォームを脱ぐこととなったのである。


最後に私事ではあるのだが、畠山との想い出を記しておきたい。
畠山が最高の輝きを放った2015年。日本シリーズの相手は巨大戦力を誇るホークスだった。
当時のヤクルトにとってホークスの壁はあまりに厚く、第1戦、2戦と完敗。
3戦以降のチケットを押さえていた私は、「これは4タテもあり得るのではないか」と不安に思っていた。

ところが続く第3戦では、山田が球史に残る3打席連続本塁打でホークスを圧倒。
そしてとどめとばかりにレフトスタンドへ白球をぶち込んだのが、畠山だった。

当時病床に伏していた私は、なけなしの金でチケットを買い、窮屈なバスに座って上京し、ふらつく足取りで神宮に入った。
「この試合、どうなるものやら……」と不安に見つめていた私に、想い入れ深い畠山が豪快な一発で応えてくれたのである。
夜空に浮かぶあの白球の姿を、私はいまもありありと想い起こすことができる。
その軌道は、まぎれもなく畠山と私たちの夢であった。

ホークスファンに囲まれたレフトスタンドで、私は病人にはあり得ない(たぶん)大声で叫んだ。
「無抵抗でやられるチームじゃねぇんだよ! ヤクルトはよぉ!  あんまり強くないけど

愛によって育てられた畠山が、ファンにも愛を分けてくれた……そんな風に、私は勝手に想っている。


畠山を育ててくれた指導者たちよ、彼に愛を与えてくれてありがとう。
そして畠山よ、病人に生きる勇気をありがとう。

問題児だったこの男が、球道を全うして静かにバットを置く。
そこに崇高なものを感じざるを得ない。
私は畠山のファンであり、ヤクルトのファンであったことを、心から幸せだったと思うのである。


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Posted bykitaojisuguru